文子のひとりごと

従来、ラジオ人間の私ですが、先日NHKテレビで見た「蝶々さん」は興味深かったです。
蝶々さんとはご存知のようにオペラで有名になった「マダムバタフライ」のことですが、今回は最後の武士の娘という取り扱いで宮崎あおいちゃんが熱演して、今までのお蝶夫人のイメージを払拭するドラマでした。
いわゆる芸者ガールとしての蝶々さんではなく武士の娘として女ながらに「葉隠」の精神を貫いた人として描かれています。
 現代に暮らす我々が『葉隠』をどこまで理解できるかと言えば難しいことですが、 「武士道というは死ぬ事と見付たり」や「武士たる者は死に狂ひの覚悟が肝要なり」といった、その部分の拡大解釈ばかりが強調されることが多いですね。
このドラマに出てくるのは「葉隠」の一節
「恋の至極は忍恋と見立て申し候。」で、蝶々さんの辞世の句とともに紹介されています。
 「忍ぶ恋」とは、一言でいえば永遠の片思いのことですが、「忍ぶ恋」と武士の生き方がどのように関連するのか理解しがたいものでした。色々な資料に眼を通しますと、葉隠の作者山本常朝は「忍ぶ恋」こそ本来の武士道なのだと叫んでいるのがわかってきます

「恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋の長けが低し。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ」

ドラマの作者脚本家市川森一さんの描こうとするものと「葉隠」の言わんとする「忍ぶ恋」はニュアンスが異なる気がしますが、原作における「忍ぶ恋」は普遍的な愛を述べたものではなく、究極の恋は相手にこちらの恋心を悟らせず、相手に恋心の負担を感じさせないということを強調しています。すなわち、武家社会においては、主君にこちらの奉公を悟られぬようにするのが真髄であって、一切の私を捨てるという点で、忍ぶ恋を通して常朝は武士道を説いているのです。その構造は同じものなのです。
『葉隠』は、死に急ぐ「死の哲学」ではなくて、無私無欲の奉公がための「生の哲学」と言えるようです。


  この記述後の12月10日に市川森一さんがご逝去されました。ご冥福をお祈りします     
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